ひとまず事情は判明したようで……


【08.12.12】『かんなぎ』休載につきまして
http://www.ichijinsha.co.jp/information/index.html

入院・手術するほどの事態ということで病状が心配ですが、ひとまず快方に向かっているとのことで少し安心できました。
無理せず、ゆっくり療養してもらいたいです。
連載再開を楽しみに待ちたいと思います。


あと今回いち早くこのような追加コメントを出した一迅社の姿勢に賞賛と感謝を。
何より、情報が少ないことの不安で起きていたのが今回の騒動だったわけで。
いたずらに騒動が拡大することを防ぐ端緒を作ってくれたその見識はお見事だと思います。



なんだか


最近「処女厨」ネタにばかり米したりエントリまで書いたりしてたら自分が「処女厨」なんじゃないかと錯覚してきた。

いや「処女厨」とレッテル貼りする人の中で「処女厨」がどういうものと定義されてるかよく分からんのですけど、別に処女崇拝とかそういうアレではないですけどね私は。
響子さんもSexFriendの早瀬も大好きだし。

その一方で、アリシアさんのときは「えー、ショック、アリシアさんひどい!」って声上げたけど。
最近ではJINKIの青葉とかもかなあ。
ナギに関しては一次ソースをそもそも見てないのでなんとも。

まあこうやって事例列挙してくと素質は十分なのか(笑)。
いやま、自分が「処女厨」でないとしたら、理解者面してコメントして回るのもひどいお節介だと思ったのだけど、杞憂だと思うことにします。





痛いニュースにトラバしてるサイトいくつか見てきたけれども。
なんだかもうフェーズとしては記事斜め読みした印象論でのキモオタ批判に移行しつつありますね。
はいはい、キモオタキモいキモい。


「もしこれが事実なら」という前置き


かんなぎ騒動、第二ステージ。

原作が休載に入ったということで、タイミング的に一連の騒動との関連を連想する人も多いとは思います。
で、それがまた、こうした煽り記事を受けて一部の「処女厨」叩きの良い燃料になっているようで。

http://maniaxz.blog99.fc2.com/blog-entry-2172.html

脅迫行為については事実なら犯罪と言っちゃってもいいんじゃないかと思う行為。ただそれは「作者の家に送りつける」ような悪質さが問題にされるべきかと。
それ以前に、これが事実である確証などほとんどない。現段階では信憑性から言えば犯罪予告書き込みと同レベルのガセネタでしかないでしょう。

で、まあ、話題にしている人の大半が「もしこれが事実なら」と前置きした上で散々言葉を尽くして「処女厨」を罵倒しているわけですね。死ねばいいのにとか。

「もし」という言葉で見せかけの中立性を保った上で、既に非難する人の中では「処女厨」は「気に入らない展開があれば作者を圧迫して連載を中止させるも辞さない」人たちということになってきている感があります。

しかしながら、かんなぎの休載と、脅迫が実際に行われたかと、それが「処女厨」の仕業かとの間には現時点で何ら関連性がないことはひとまず押さえておきたいところです。


個人的には、今回の休載については残念ですし体調不良ならばゆっくり静養しての復帰を待ちたいと考えています。
ただこの休載を、「処女厨」バッシングの燃料に使うというのは、それこそファンとしてどうなの?と思わざるを得ないです。



http://b.hatena.ne.jp/entry/http://guideline.livedoor.biz/archives/51147088.html

このあたりにも、既に(あったかどうかも分からない)脅迫の関連性ありきで語ってる人がいるなあ。






追記:

id:koisuru_otouto sexual abuse, スイーツ(男) コメント欄必読。ネットであれだけ非難の声があって(作者自身に対するものも多い)、破壊の画像まで公開されたにもかかわらず"現時点で何ら関連性のない"と言い切れたり、そういう行為を"ネタ"と言える神経がすごい。

作者自身への誹謗中傷はともかく、作品内容に対する批判もしてはいけないんですか?

破砕したコミックの画像をアップする行為自体にどういう問題が?

そもそもそれらの行為と今回の休載にどういう因果関係が?

因果関係があったとして、それは作品批判を制約すべきものですか?

何度も言いますけど、編集部でなく作者個人の家に写真を送りつけたりする行為がもしあったとしたなら、それは脅迫性を含む極めて悪質な行為です。そんなものを擁護する気はさらさらない。
しかしネット上の批判までまとめてそこに結びつけて断罪するのは行き過ぎじゃないですか?

その辺の問題の切り分けをしてください、と言っているのですが。


http://anond.hatelabo.jp/20081206183946
おかしなことは言ってないと思うんだけどなんか批判されてるな。



処女と童貞とファンタジーとリアル


激しい〈処女信仰〉は、悲しい〈童貞賛美〉の裏返しの叫び
http://yusurakinaco.blog92.fc2.com/blog-entry-177.html

に対するなんとも言えないもどかしさをどこにぶつけようと考えていたのですが、ブクマコメでのやりとりで、ブログ主の意図が「中古という蔑視表現に対する不快感の表明」にあると聞かされて気勢を削がれてしまいました。
しかしだったら最初からそういう指摘にしておけばいいわけで、このエントリの内容は明らかに要らぬ余波を呼んでいますし意図が正確に伝わった様子は全くありません。



先に言っておくと今回のかんなぎ騒動、私としては特にショックを受けなかったため、当事者意識とは微妙なずれがあると思います。
ただ同種の話でショックを受けたことがないわけではなく、そういった意味での共感はあるため、多少は彼らの心理に近いことは言えるかも知れないと考えています。

そういう意味で、

「中古いらねー」「単行本捨てる」と書いてる人は、童貞をこじらせちゃった人です。ただ童貞なだけなら、好きなキャラが処女だろうが人妻だろうが、心は揺らぎませんが、自意識が膨張するあまりに童貞をこじらせてしまった人は、他の価値観をもこじらせてしまうのです。



非処女ありえない → 穢れない肉体こそ至高 → 穢れない自分の肉体も至高

処女を信仰することで、己の童貞を賛美する図式。

という思考が、今回のような騒ぎの背景にはない、ということは言えます。

というか(ブログ主の真意を知った今では分かりますが)これは単に非処女蔑視(とブログ主が受け取った意識)を童貞に裏返して揶揄するためだけに取り繕った図式だと思います。


今回のように「萌えキャラが実は処女じゃなかった」という来歴を明らかにされたとき、ショックを受ける心理の裏には、「そのキャラに対する恋心の破綻」はあるかも知れませんが「自己と対照化した上での劣等感」は考えにくいです。
「自分がどうあがいても関係をもてない相手と、関係を持った誰かがいる」ことに対する憤り、はあるかも知れませんが、それは自分が童貞である/なしは関係ないでしょう。



「ただ童貞なだけなら、好きなキャラが処女だろうが人妻だろうが、心は揺らぎません」とありますが、例えば童貞であっても人妻キャラや性経験豊富なキャラを好きになることもあるでしょう。
一方で、単に童貞を捨てただけで「好きだったキャラが実は処女でなかった」ショックに耐えうるほどの精神力がつくか?甚だ疑問です。

そう考えると上記の図式は、処女と対称化するつもりで童貞を持ち出し、非処女蔑視を童貞蔑視に置き換えて笑うためのお膳立てにしか見えません。

わかっているんですよ、どんなに処女信仰を激化したって、世間は童貞信仰には走りません。女性の未経験は一部で貴重がられても、男の未経験はガキ扱いされるだけ。世間が蔑むから、自分も卑下してしまうのだ。そんな風潮さえなければ、俺もこじらせずにすんだものを……ギギギ。

このあたりまで来ると、論理性も何もなく単なる童貞dis、というか処女信仰(という言葉もあまり良い言葉とは思えないが)への煽りです。
このような論を真に受けて喜ぶのはid:p_shirokuma氏のようなおっちょこちょいさんだけとは思いますが、ブログ主の意向は納得の行く心理分析ではなく単に処女信仰というものに対する罵倒でしょうからその意図は達成されていると言えます。

ブログ主が、単に不快感を発散する目的でこれを書いたのであれば仕方ありませんが、もし少しでも建設的な方向に話を進めたいのであれば、「中古女」という表現の蔑視性をもっときちんと表明するべきだったのではないかと私は思います。



ところで、上記ブログのコメント欄でも全く話が平行線になっていますが、オタクが「中古イラネ」というとき、イメージの中に現実の女性は入っているのか。この手の問題で「中古イラネ」という人間が、常に非処女女性を忌避しているのか。「中古イラネ」は果たしてキャラに向けられた発言なのか、作者に向けられた発言なのか。そしてこれら全てを含め、「中古イラネ」という言葉が外部を意識して発せられているか……というのは大きな問題と思います。

これは、処女問題に限らず、ロリコンにせよ創作内での女性虐待にせよAVでの顔射にせよ、根を同一にする問題でしょう。



コメント欄でのやりとりが平行線化するのは、イラネ派(良い言い方が見つからないのでもうこれで)があくまでこの問題を創作内でのキャラクターのありようとその消費の仕方と考えているのに対し、イラネ批判派は、童貞の無知を笑うにせよ蔑視を批判するにせよ、現実の問題と絡めて語っているからです。

イラネ派からすれば、ことは創作のキャラクター、もっと言えば、特定のそのヒロインに対する問題なわけです。なぜなら、ナギ様にショックを受ける人でもリンディ提督やスメラギさんに萌えることはできるからです。と、言ってしまうと、世の中には処女専みたいな人もいるらしいので、言い方を変えると、ヴィレッタさん萌えな人がナギ様にショックを受けることはありうるからです。
だから、「イラネ」というとき、多分彼の中では生の女性は想起されていない。女性一般の問題に敷衍してすらいない。
けれど、ひとたびイラネ派によって「中古」という言葉で問題が語られたとき、女性の側はそれを自分の側に引き寄せて考えざるを得ない。



これはロリコンが「女は14歳までじゃないと」と言ったりレイプものAV好きが「レイプ作品じゃないと興奮しない」と言ったり顔射好きが「やっぱりフィニッシュは顔射」と言ったりするとき、それを聞いた女性が不快に思うのと全く同じことでしょう。
いやもっと普遍化してもいい。「眼鏡萌え」という言葉が視力の弱い人に対して与える不快感。デブ専ハゲ専、ブルマ萌え、ニーソ萌え……あらゆるフェチズムが暴力的な視線を伴うことは自明のことです。



問題を相対化して埋没させようというわけではありません。現実の女性にとって、女性が「中古」と表現されることに憤りを感じるのはもっともだと思います。ならば、「童貞こじらせ」などという罵倒に罵倒を返すような仕方ではなく、「中古」という言葉の非人間性を訴えるべきではないでしょうか。

と、言ったところで、憤懣の発散のかたちとしてエントリを記すのが悪いことではないわけだし、気に入らない相手への罵倒にどのような表現を使おうが自由なのですが。この場合は淡々と論理の破綻と恣意性を指摘するだけで良いのかも知れません。



「イラネ」派がショックを受ける理由の是非自体については、ここで述べると散漫になりますので避けます。




ただ、補遺的に記されていた電影少女 恋編について一言述べておくとすれば。
主人公とヒロインに対しあのような関係性を設定し、恋(レン)にあのような台詞を語らせた作者の意図を慮ると、あれはジャンプの読者層(イコール、年齢問わず一般的な男性ということですが)の中でもそのような意識があるのではないか、という点を突いた訴えかけなのではないかと思います。
つまり、オタクや童貞のみならず一般的な漫画読者にとってヒロインの処女性は自明なものであるという先入観と、それを否定されたときのメタレベルでの反応について、作中で描いてみせているのではないかと。


もし恋編の打ち切りが、ヒロインが処女だったことにあるのではなく、主人公への共感のしにくさにあったのだとすれば、この「処女性の尊重という心性」は否定されることになるのでしょうが、恋の台詞にしろ週刊連載最終回になって出てきたものであり、その辺の判断はなんともし難いところがあります。




恋編については、「援助交際」という言葉がまだメディアに露出する以前の時代の作品で「金でやらせてくれるという噂の立っているヒロイン」という大胆な設定を持ってきたこともあり、プラトニックを感じさせる主人公たちの関係性に性の問題を持ち込み、この先どう葛藤を深めて行ってくれるか、楽しみにしていた作品だったので、打ち切りは残念だったのを覚えています。
(あい編と比べて絵のタッチを変えるなど作者がかなり意欲的であったことを窺わせる面も。というか、あい編はBOOK OFFで集めちゃったけど恋編は新刊で買うくらい好きだったんですが当時)







追記:
あちらのエントリのコメント欄でブログ主の追加コメントがされておりましたね。

元々ブログ主のスタンスを伺っていたので真面目に反論する気になれなかったのですが、下記コメントを読んで、本気で突っ込んで反論しなくて良かったと思いました。

過剰な否定、叩きは、「見苦しい」と否定、叩かれる可能性もあります。この記事では叩いたのでなくpgrしただけなんですけど……伝わりづらかったようで申し訳ないです。

(強調部は私)

尚、あのエントリ自体はあくまで二次元作品に対して言及したものだという表明もされていました。

もちろん、この記事は「2次の女性キャラを中古といった」件について書いてますよ。
2次元は2次元の楽しみ方がありますが、「所詮2次元じゃないか」という言葉は、物語を軽んじているので好きではありませんね。
あと、漫画の女の子が中古呼ばわりされてるの見て実際に怒る女性は、かなり少ないんじゃないでしょうか。「女性蔑視ヒドイ!」じゃなくて「うわぁ……」が主な反応だと予想。祭を見て「自分もこの人たちに中古と罵倒される?」と危惧するかというと、「まぁ、そんな場面は訪れないわな」と悟るわけで。でも、嘲笑ぐらいはしまっせ!

マンガのキャラが中古呼ばわりされていたとして、現実に引き寄せて危惧・嫌悪を抱く女性は少ないのではないか、という見解は、女性側からの視点として興味深いです。
(もちろんそれが中古呼ばわりの免罪符になるとは思いませんよ)




コードギアス最終回を観て。

最終回観ました。


























































あかんやろー!!!!
妹のためにずっと戦ってきたのに、その妹最後の最後で泣かしてどないすんねん!!!!!!
お前は、ナナリーのために生きててやらなあかんやろー!!!!!!
この……馬鹿っ!!!
大馬鹿!!!!!!

(取調室の刑事か)


そんな終わり方しかなかったとはいえ、あまりにも悲しい終わり方に心を打ちぬかれて、もうその後の学園ギアスもみんな揃ってのヴィレッタ結婚式写真もそこにルルがいないというだけで悲しすぎて観ていられませんでしたよ。


群衆の、歓喜のゼロコールの中、一人泣き崩れるナナリーの構図は、一期のユフィの最期と「合衆国日本!」の場面そのものですね。
悲劇は繰り返された。一度目は予期せぬ悲劇として。二度目は仕組まれた悲劇として。
それだけ、誤解され人々に憎まれたまま逝ったユフィのことが、ルルーシュにとっては悔いであり、同じ姿を自らに課すことが彼にとっての罰だったのでしょう。
思えばR2のルルーシュは、ナナリー以上にユフィへの償いのために戦ってきたような気もします。


そしてゼロの衣装をまとったスザク。思えば、初めてルルーシュがゼロの姿をとったのはスザクを救うためでした。
今回のゼロはその裏返しでもある。形としては命を奪うということですが、あれは、ルルーシュの魂を救う行為だったのだと思います。
そしてスザクのときも、今回も、それを阻止する立場となったジェレミア。
一度目は意に沿わぬギアスの力で、そして今度は、自らの意志でゼロを見逃しました。
咲世子さんもそうなんだろうけど、ルルーシュのためなら命を投げ出すことも厭わないであろうジュレミアが、ルルーシュのために、笑ってスザクに道を譲るところが素晴らしかった。
真の忠義を見た思い。




他にも色々言いたいことはあるけれど、今はこれで終わりたい。




よくやったよ、ルルーシュ。自分の愛する者全てを敵に回す行為。どれだけ辛かっただろうか。
決して仮面をひび割らせることなく、鉄の意志で全てをやり遂げたルルーシュ
その意志の力、覚悟は本当に素晴らしかった。
今までありがとう。

コードギアス最終回を前に

いよいよ、あとわずかでコードギアス最終回放送となりました。泣いても笑っても、これで51話に及ぶルルーシュの旅路に終止符が打たれることになるわけです。


物語を消費するという行為は、それが語られていく過程で生まれた様々な可能性の枝を切り落としていく行為でもあります。もちろん作品として提示されるそれは、あらかじめ一本の道が決まったものではあるのですが、消費する我々にとっては、そこに辿り着かない限り無数に枝分かれする先の見えない道に他なりません。


コードギアスという物語も、既にたくさんの枝を切り落とされてしまってきているわけですが、先細ったその先にも、僅かにまだ枝分かれが残っているように思います。
そこで、残された時間の中で、可能性の枝をもう少しだけ、探ってみたいと思います。


ルルーシュの結末
ルルーシュの結末として最も多く予想されているのは、彼の死によって物語が閉じられるというものではないでしょうか。
「ゼロ・レクイエム」という目標のため、多くの血を流し、自分が世界を征服する必要があると語ったルルーシュ。しかし一方で彼は、これまでずっと他者に運命を支配されることを拒み続けてきました。
そのルルーシュがみんなに与えたいという願う「明日」が、ギアスという超常の強制力によって培われたものであるはずがない、という推測からも、彼が自身の支配を永続のものとするつもりがないことは推測されます。
同様の理由から、ナナリーに後事を託すというのも考えにくいことです。新生ブリタニアという彼の作り上げた枠組みそのものが、彼の中では紛い物でしょうから、それを残すことはポリシーに反する。
(それにナナリーも、既に自身の手を汚しています。ルルーシュがどう思うかは別にして、彼女がそのまま至尊の座に残ることを望むとは思えない。そもそもゼロ・レクイエムは彼女の生存という条件なしに組み立てられたものであるはずです)


しかしならば、なぜ彼は強権によってでも、無理に世界を統一しようとしたのか。
たとえ彼を打倒することを目標に人々が団結することが目的だったとしても、彼が打倒されたあと、結局人々は己の私利私欲に従い同じ過ちを繰り返すことは目に見えています。


でも、彼が残したいと考えているのが、「結果」ではなく「過程」だとしたら?


おそらく、彼は全ての敵を打ち倒し、全世界に皇帝として君臨したその座で、滅ぼされることを望んでいるのではないでしょうか。
そして悪逆の限りを尽くし、他者を虐げ支配しようとした者の末路を、反面教師として人々の記憶に残そうとしているのではないでしょうか。
「最悪」を経験した者は、それ以後その「最悪」を回避しようと望むはずです。
シュナイゼルが、恐怖と力で人々の選択肢を奪おうとしたのとは異なり、人々には未来を選ぶ自由を残し、自らという絶対悪を示すことでより良い選択肢を模索してもらおうというのが彼の望みなのではないかと。


そして人々の前で少しでも華々しく、ショーのように帝国の瓦解を演出する者として、最も信頼する最強の戦士、スザクを配するつもりなのでしょう(もちろんユフィの仇討ちを遂げさせてやるためにも)。
そのため、大切な人々は全て自分から遠ざけた。
ジェレミアの処遇は未定ですが、彼は最期までルルーシュに殉じる覚悟なのではないかと思います。以前フレイヤの爆心地でスザクに語った通り、彼とスザクは最期まで相容れないのがふさわしい立ち位置のような気もします。




・あるいは、考えられる他の結末
……さて、これは最も予想されていると思われる、ルルーシュが死ぬというケースに基づいての推測ですが、これまでルルーシュの活躍に胸躍らせてきた身としては、ちょっと寂しすぎる結末な気もします。
また、如何なる形であれ自殺を望むのは逃避であり、ある意味で容易い選択です。
そこで、敢えてルルーシュが死なないのではないかという方向性も考えてみました。



まず、C.C.に笑顔を与えるという彼の約束。
これは彼女をコードの呪いから解放するという約束に思えます。
コードを移された者は不死となりますから、当然彼は死なずに終わる(もちろん、上記の「分かりやすい形で殺される」演出はそれでも可能です)。
そして不死となった彼は、神根島の遺跡でCの世界に閉じこもり、永遠にそこで過ごす罰を受けるつもりかも知れません。
それは、永久に人々の行く末を見守り続ける、ある意味で死よりも厳しい行為でしょう。しかし、人々の未来を信じようとした彼にとって、それは義務であるとも考えられます。



もう一つ、24話でナナリーの目が開いたことからの連想なのですが、スザクによって命ではなく、ギアスの元である「目」を奪われるという可能性。
彼のギアスである「王の力」は彼がシャルルに否定してみせた「他者への意思強制」の力そのものでもあります。かつて「他者を支配する力」を最も望んだ少年が、今、それを最も憎むようになっている。そんな状況で、「王の力」を与えられることで始まった物語が「王の力」を奪われることで閉じるというのも、ある意味収まるべき地点かも知れません。
ナナリーが光を取り戻したのと対称に、光を失ってそれでも生き続けることでこれまでの罪を償う。永遠の生とは別に、これもまた厳しい結末になると思います。




いずれにせよあと30分たらずで全ての可能性は収斂し、たった一つの結末が示されることになるわけです。
どういう形になるかは分かりませんが、満足のいく結末が見られることを望んでやみません。

作画の乱れについて言及すること

なんだか話題がどんどん発散しているしこれ以上人様のコメント欄でやるのも気が引けるので、普段はやらないけど補足的な意味で少しだけ書いておきます。


そもそもは

2008年09月02日 y_arim
id:daihx 最近のアニメの作画の丁寧さにはありがたくて涙が出るよ! コードギアスR2の20話で作画崩壊とか抜かすアニメゆとりがはてなハイクにすらいたが、全員爆発すればいいと思った。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080901043503

に対して

2008年09月02日 angmar
昨今のアニメは作画の安定度は高いのは確か/その高水準の中で作画の良い・悪いについて語ることがそれほど悪いとは思えない/なんか「昔の食事に比べればごちそうみたいなもんだから我慢しろ」みたいなノリだこと

とコメントしたところ、メタブクマで

2008年09月02日 y_arim
id:angmar 現在の高水準の中での良し悪しも、昔の(相対的に)低水準の中での良し悪しも一緒くたに「作画崩壊」という思考停止に近いキーワードで片付けられている知的怠惰ぶりが非常に不愉快。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080901043503

と返されたので

2008年09月02日 angmar
スケジュールその他の問題で作画水準が維持できない状態を指しているのだから、程度の大小は関係ないのでは

と応じたのがきっかけ。


その後、
アニメの作画のはなし - だいの闇鍋食堂はてな店
さんのところのコメント欄で意図を補足させて頂いたのだけど、それに対するコメントが重なって現在に至っているような状態。


で、まあ上に書いた通り、私としてはアニメの作画について言及すること自体を否定することは出来ないと思っていて、それを「作画崩壊」という一語に集約することがそれほど悪いこととは思わない(短絡的だとは思うけど)。
むしろそうした傾向を「アニメゆとり」のものと断じて「全員爆発すればいいと思った。」と断じてしまう方こそ短絡的ではないですかと思ってしまうわけで(もっともこれに対するエクスキューズは上のコメント欄でid:y_arim氏自身から示されているので納得はできるのだけれど)。


だから、私自身がコードギアスマクロスFに対して作画崩壊していると言っているわけではない。
作画崩壊が許されないと思っているわけでも、高レベル安定だけがアニメの方向性だとも思っていない。
昔のアニメが一律作画がひどくて今のアニメが一律素晴らしいとも、その逆とも思っていない。


ただ、高レベル安定の今のアニメの傾向にあっても、そこには作画の上下は存在するし、それについて言及したときに「作画崩壊」という単語だけにアレルギー的に反応して議論を封殺する、あるいは
 「作画ばかり気にしすぎで脚本や演出を見ていない」
といった問題のすり替えを行うことにものすごく違和感を感じるというだけです。
そこで「作画崩壊」という言葉をタブー視するのであれば、上のコメント欄でも書いたけれども「作画不安定」とか「作画微妙」とか「一部作画が変」とか別の言葉を提示するべきだと思う(言葉が悪いというだけの問題なら)。


ふと気になったけど、「作画微妙」なら表現として妥当なんですかね。




あと、上記コメント欄に対する返事として用意していたものなのだけど。

y_arim 2008/09/03 15:12
こちらも手短に。
> 尚のこと過去の事例を出して「こういうレベルを作画崩壊という」と述べるのは意味がなくありませんか?
「下の世代」が使っているジャーゴンに乗って話をしてみるとこの扱いかよ!
まあ、昔のアニメなど知らん、と返されればそれまでではあるなあ。過去を知らないからこそ、今の基準で今のものを裁けるわけだし。
それはそれでしかたがないんだけど、昔のアニメなど知る気もないという態度を呈されれば腹も立つ。

> 上記の反論にどいう意味が?
これがねえ、作画崩壊という語を使う連中、それを理由にして全否定するような輩が多いのだよ。話がよくても作画がダメなのでまともに見る気にならない、みたいなやつ。最近なら『魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜』1話の時点でよく見かけた。
まあ、angmarさんの意見への直接の反論になっていないのは事実で、そこへの批判として「何の反論にもなっていません」というのは正当なんだけれども。

>まあ、昔のアニメなど知らん、と返されればそれまでではあるなあ。過去を知らないからこそ、今の基準で今のものを裁けるわけだし。
>それはそれでしかたがないんだけど、昔のアニメなど知る気もないという態度を呈されれば腹も立つ。

ここは、y_arimさんと私のスタンスの差というか、私はことこの界隈の問題に関しては教養主義を持ち出して若い人をたしなめるのは好きになれない(それは優越感ゲームになりかねないからでもあるし若い人に対し有効に機能するか疑問だからでもあるのですが)というのが根底にあるので、頑固親父的に「なっとらん」と叱責する役目はお任せしますということで。


>これがねえ、作画崩壊という語を使う連中、それを理由にして全否定するような輩が多いのだよ。話がよくても作画がダメなのでまともに見る気にならない、みたいなやつ。

これが「それくらいにぼくの怒りは深い」に根差している部分ということでしょうかね。
懸念するところは分かります。マクロスFでいえば4話や8話の話になったときに「作る側は安定した品質のものを提供する義務がある」とか「アーティスト根性は別のところで発揮してろ」とか言い出す輩には正直辟易するので。
最近だと紅最終話でもあったなあ「これじゃ売れねーよw」とか。


しかしだからといって、「最近の若い者はちょっとした作画の乱れも許せない」「作画崩壊とはこんなものじゃない」みたいな論調で作画についてのコメントを封殺してしまうのはどうかと思うのですよ。
ギアスR2 20話に関して言えば、私はまず見終わったあとEDクレジット観て、「折角の須永コンテなのにこの絵作りってことはやはり作画スタッフの力不足だなあ、もったいない」とか思ったわけですが、そこで「ちょっとくらい崩れたくらいでガタガタ言うな」と言われても困っちゃう。
今のアニメ業界が、リソースを上回るクオリティを要求されている健全とは言えない状況だからといって「作画について触れるの禁止っ」ってわけにもいかないでしょう。


そこで元に戻って、「作画崩壊」という単語から受ける印象、というよりも想定されうるその単語の利用層への印象から、「あの話を作画崩壊と称する輩はジェノサイド」と一くくりに処理するのは、作画への指摘に目を背けているという一面もあるわけで、別の意味で作画を否定しているように思えます。




これで大体言いたいことは言った感じかな。
あとはまあ、
はてなブックマーク - アニメの作画のはなし - だいの闇鍋食堂はてな店
ブコメで気になったものに幾つか返事を。

kiichi55
今は、テレビ放送とDVDセルが連結しているからなぁ。2000年以降ってそういうことだろ?どんどんハードルがあがっていくなぁ。あんまり突き詰めるとPS3で面白いゲームが出ません。みたいになるぞ。

メタブクマでもちょこっと書きましたけど、私もそういう懸念は持っています。今は売れる作品と売れない作品の差がかなり開いていて、売れる作品がかなりの高クオリティを打ち出してきているために、他の作品はその水準に合わせなければと必死に背伸びをしている状態でどこも内実はあっぷあっぷだと思います。
まあ、だからといって、本数減らせとかビジネスモデル変えろという話に簡単に持っていけるものではないとも思っていますが。

kyo_ju
作画崩壊って2chアニメ板(分割前か後かわからんけど)起源かなんかですかね。

元のコメント欄でも書きましたが言葉自体は2001年5月頃から使われていたようですね。検索ターゲットにしたのは2000年末くらいからのアニメ板のスレッドログですが(もちろん全てのログを保存しているわけではないので正確なところは分かりません)。
主に散見されたのはシスプリスレとリアルバウトハイスクールスレ。
もっともこの頃はそれほど使用頻度が高かったわけではなく、「作画酷い」とか「火鳥丸投げ(火鳥動画のこと。当時ひどい作画の代名詞として使われていた)」とか他の表現も多かったのですが、明けて2002年頃から使われる頻度が徐々に多くなってきたように見えます。
この頃の2chスレの流速なんて今とは比べ物にならないくらい牧歌的なものだったので、多いとはいってもたかが知れていますが。

numberarmytheboots
お話がよければ動いてなくても…。フルが気持ち悪いって何十年前からなんだろ

例えばそれは、ハーメルンのバイオリン弾きレベルでも許されるということでしょうか。

ちなみに、紙芝居アニメとして揶揄されることの多いハーメルンですけど、他の大多数の場面を止め絵にすることで一点集中してレベルの高い動画を実現していること、全体的に(止め絵とはいえ)作画クオリティを維持していること、止め絵の違和感を極力小さくするために演出的工夫が為されていること、原作とは一味違うハードなストーリー展開であることなどから、かなりエポックメイキングな作品だったと個人的には思っていますが。
同じように真下監督のアベンジャーなんかも紙芝居アニメと言われますけど、同じく演出で場面の繋ぎをカヴァーする点、一点豪華主義で面白い動画を見せてくれている点が評価として抜け落ちていることが多いです。
一般的に「動かないアニメ」に対する否定というのは根強いようで。

m-bird
古いアニメ、作画酷くないですよ…999とかタツノコとか…デジタル制作に変わったからだけだと思いますよ…作画好きは、酷い作画の作品についてなんかは語りませんよ…エウレカ3期OPのうつのみや作画、大好きですよ…

作画問題とひとくくりで語ろうとしたとき、一方で「安定した作画こそ至高のもの」って考えと「作画の究極は動かしたときの絵」って考えとあって、スタートが違うから両者の差は中々埋まりようがありませんね。
動画の良さを信条とする人は安定した作画を「紙芝居」と批判しますし、安定作画が好きな人は動画の良さを力説する人にある種スノッブ的な鼻持ちならなさを感じていると思いますし。

まあそれはそれとして、今回の場合発端のエントリからして「初代マクロスマクロスFよりももっともっと酷いぞ」なわけで、昔の作品でも最底辺のところを持ち出して、マクロスFという現在最高レベルのアニメにぶつけて「贅沢だ」とか言っているわけで(まあマクロスという括りでの比較なんですが)それを最近の視聴者に言ったって届くわけないだろう、という印象。

gnt
どうでもよかばい。全部ポリゴンにすればよかばい。ポニョはヒロインの顔が変わりすぎで作画崩壊ばい。/実際手を動かしてる人か否か、の違いな気。angmarの人が職業絵描きだったら失礼。

いまいちよく分からなかったんですが、プロの絵師かどうかでこの問題へのスタンスが変わるということですか?
それを言うならy_arimさんだって絵で生計を立てている人ではないと思っていますが。
プロのマンガ家が自分のブログのアニメ感想で「作画崩壊」と言うのは許容されるとか?


あとまあ、どうも作画がイマイチでも脚本や演出が素晴らしければ良いという心の広い方が多いようですけど、例えばy_arimさんは「魔法遣いに大切なこと〜夏のソラ〜」を挙げていましたが、あれも許容されるレベル(つまりは、買うか買わないかという判断をするときに無条件に却下されることはない)でしょうか。
……まあ、「魔法遣い〜」の脚本演出が突出しているかというとそれも微妙なので、「ポルフィの長い旅」とか「神霊狩/GHOST HOUND」とか「カイバ」とかでもいいですけど。
#なんかこれらの作品の作画が悪いみたいだけどそんなことはないですよ!作画面よりも脚本演出面で光るものがあるのを選んでみたつもり。


作画が悪くても脚本演出が良ければ「許容できる」人は多くても、買うか買わないかというシビアな局面において、脚本演出重視する人というのはあまりいないのではないかと、これは勝手な想像ですが。

もっとも、元エントリの方でもy_arimさんが書かれていますが、作画スケジュールの逼迫は脚本など前工程の遅れに引きずられることが多いので、作画が悪い⇒脚本もそれなりに逼迫した状態で書いている⇒脚本クオリティがいまいち、ということが多いですし、演出に関しては、監督や演出家が意図したところのものに作画が追いついていないと十全に機能を発揮できないという側面があると思いますので、結局作画が突出して悪いというケースはあまりないと考えているのですが。
逆に脚本演出が突出して良い、というケースは、最近では「怪〜ayakashi」の「化猫」くらいしか出てこないのですが、脚本演出重視という方は、どういう作品を想定されているのか、興味があるところです。